映画「クリムト エゴン・シーレとウィーン黄金時代」公式サイト » CHARACTERS


グスタフ・クリムト
Gustav Klimt

世紀末ウィーンを代表する画家。ウィーンの美術工芸学校に学ぶ。初期にはアカデミックな作風で才能を認められ、劇場の壁画装飾などで名を馳せる。1897年に保守的なウィーンの画壇から離脱し、「ウィーン分離派」を結成。自ら初代会長として分離派会館を中心に多くの展覧会を開催しながら、新しい造形表現を追求した。同世代の芸術からと共に、絵画、彫刻、建築、工芸の融合を目指す総合芸術を志向する。エゴン・シーレら次世代の画家達にも多大なる影響を与えた。



エゴン・シーレ
Egon Schiele

クリムトと同じ美術工芸学校を卒業後に、16歳でウィーン美術アカデミーに進むが、クリムトに弟子入りを志願し退学する。その後、身体の歪みや内省、欲望と悲劇の表情に魅せられ、多くの自画像や肖像画を制作するようになる。11年4月にウィーンで開催した初の個展で注目を浴びるが、12年4月13日、未成年の少女に対する性犯罪の容疑で逮捕される「ノイレングバッハ事件」が起きる。28歳で死去するまでの10年間で300点もの絵画と数百に及ぶドローイングを制作した。



ベルタ・ツッカーカンドル
Berta Zuckerkandl

オーストリアの作家、ジャーナリスト、芸術評論家。サロン主催者。リベラルな新聞社主の娘としてウィーンに生まれる。19世紀の終わりから1938年まで別荘やウィーンのラントマン・カフェの上階に文学サロンを開設、オーギュスト・ロダン、クリムト、マーラーなど芸術家などを集めた。姉のソフィーがフランスの社交界に通じていたため、パリの芸術界とも交流があった。現在も続くザルツブルク音楽祭の共同創設者でもある。



エミーリエ・フレーゲ
Emilie Flöge

クリムトの弟エルンストの妻ヘレーネの妹として出会い、クリムトのソウルメイト的存在になる。クリムトの代表作の『接吻』はフレーゲがモデル。1904年に姉ヘレーネとパウリーネと3人でモード・サロン「フレーゲ姉妹の」を開く。ゆったりと着心地のよい合理的なドレスは、窮屈なコルセットに苦しめられていた女性たちに支持され、大流行。ウィーン・ファッション界を牽引したビジネス・ウーマン。



ヴァリ―・ノイツィル
Walburga Neuzil

教師の娘で、クリムトのかつてのモデルだった。1911年から15年までシーレと同棲生活を送り、ミューズとして、また内縁の妻として献身的に彼の生活を支えた。シーレは彼女を「ひばりちゃん」と呼んでいたという。しかし、アトリエの向かいに住むエディット・ハルムスとシーレが結婚することになり、彼のもとを去る。15年にシーレが製作した代表作「死と乙女」は2人の別れがモデルとなっている。



グスタフ・マーラー
Gustav Mahler

後期ロマン派の作曲家、指揮者。15歳でウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学。卒業後は様々な劇場で指揮者として研鑽を積み、ウィーン宮廷歌劇場、ウィーン・フィルハーモニー、メトロポリタン歌劇場、ニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団指揮者を歴任する。代表曲は交響曲第五番「アダージェット」など。



ジークムント・フロイト
Sigmund Freud

精神科医で精神分析の創始者。神経症の治療に自由連想法を使い、無意識の力動的過程や構造を研究して、治療法および深層心理学である精神分析を確立。精神医学、心理学、社会学などのほか、文芸や芸術にも多くの影響を及ぼした。著作に「夢判断」「精神分析入門」など。



ソニア・クニップス
Sonja Knips

クリムトのパトロンの1人。帝国陸軍准将の娘で、金属産業で財を成した実業家アントン・クニップスの妻。クリムトはモデルの女性の中で特に彼女を気に入っていたようで肖像画で彼女が手にする赤いスケッチブックには、写真写りがよかったクリムトの写真が挟まれていたという。肖像画は彼女が25歳だった時に描かれたもの。